2016年5月23日月曜日

何に役立つの?という問いに対する個人的な回答になっていない回答

基礎科学に対して「で、その研究が何の役に立つんですか?」という質問がある。もちろん税金をつぎ込んでいる以上、ある程度説得力ある回答が必要で、だいたいは「基礎科学はさらに未来で役に立つ(将来は役に立つよパターン)」「人類の知的活動に我が国が貢献することで誇りになっている(お国の誇りになっているよパターン)」「知りたいという知的欲求を満たすため(人間が人間であるための活動だよパターン)」「何も役に立たないよ(ぶっちゃけパターン)」に分類されると思う。

僕のそれに対する回答になっていない回答は「そんな質問が出る時点で日本は貧しく不寛容になった」。日経ビジネスオンラインの小田嶋隆のコラムのいつかの回で書かれてたことに影響されたけど、「それが何に役に立つかと聞く人間は逆に言うと、役に立たないものは存在してはいけないと思っている」ということ。これはまさにその通りで、何の役に立つのか?って言い換えると、お前存在する価値ある?って聞いてるのと同じ。ただしもちろん、「なぜその研究にお金を使わなきゃいけないのか」という質問に対する回答は上記のようにある程度用意すべきですが。

話を戻してじゃあなぜ「何の役に立つの?」という質問が出るか(前から出ていたかは知らない)っていうとやっぱり経済が停滞して貧しくなって、パイの奪い合いなんだろうなあと思う。余裕がなくなって精神的に貧しくなってる。実際、どこもお金がないという世知辛い話しか聞かない。

それと共に理由としてあると思うのが、自分がわからないものに対する拒絶、不寛容があると思う。
http://www.moae.jp/comic/mangakarestart/17
で、不条理とナンセンスが1995年の阪神淡路大震災とオウム事件、2011年の東日本大震災で世の中のほうが不条理とナンセンスがたくさん起こり、世の中には理由があるというのを求め始めたと言っている。個人的には忠誠を誓ってた会社からのリストラとかバブル崩壊の影響も結構あると思うけど。そのような不条理や理由がわからないものがあふれる世の中で、「役に立つ」というわかりやすい理由が求められているのだと思う。

なんていうか絶望ラジオを特集したドキュメンタリーで言ってた「頑張れない人でも居場所のある社会にしたい」なんだよなあ。何かの役に立たなくてもいいじゃん。

ピングドラムの運命の果実がリンゴな理由

ふと気づいたというか腑に落ちる解釈ができたので書いておきます。
気づいている人もいるかもだけど。


輪るピングドラムでは、運命の果実であるリンゴを一緒に食べることで、運命の乗り換えができる。では、なぜリンゴで一緒に食べることで運命の乗り換えができるのか。

リンゴといえば、旧約聖書のアダムとイブが食べた禁断の果実としてのリンゴが想起される。楽園に住んでいた2人は蛇にそそのかされて、リンゴを食べてしまい、楽園から追放される。そしてこの物語の構図をピングドラムで考えると、筋の通った解釈ができる。

楽園というのはアダムとイブが「父」なる神から与えられた、全てが不自由しない場所である。この関係性、与える「父」と与えられる子どもは、家庭だ。親が子どものために様々なものや環境を与え、子どもが何不自由なく過ごすというはまさに理想的な家庭だ。しかし、世の中はそのような理想的な家庭、家族だけではない。ピングドラムで多蕗やユリのような子どもにとって親と子は、生殺与奪権を持つ「神」と親の理想を実現するための「子羊」でしかない。

彼らにとって楽園は楽園ではなく、もはや逃げ出すべき場所でしかない。唯一逃げ出すことができる方法が、運命の乗り換えができる方法が、禁断の果実を食べ、楽園を追放されることである。禁断の果実を食べると罰を受ける。運命の乗り換えで代償を負うピングドラムも同じだ。

つまり、運命の乗り換えでリンゴを一緒に食べる意味は、2人で罰(または罪ともいう)を分けあうことで、家族という与えられた環境を捨て、新たな環境で生きていくということである。だから、高倉家に新しい環境をもたらす女の子の名前が苹果なのかもしれないと思った。

親の愛の象徴として高倉家の玄関にリンゴが積んであったように、ピングドラムの象徴として出てくるのもリンゴである。上では不幸な家庭の例を挙げたが、幸せな家族だってもちろん存在する。それでも、幸せに思えた愛だって人の拘束装置に変貌しうる。そのような非常時の脱出装置として、お互い分け与えるけども何かがあった時に逃げる(逃げさせる)ために、リンゴが必要だ。だから輪るピングドラムでは、愛の象徴と運命の乗り換えに必要なものは表裏一体で、リンゴとして表されているのだと思う。